昭和44年04月03日 朝の御理解



 信心の心得、
 「神は声もなし、形も見えず疑えば限りなし恐るべし。疑いを去れよ。」

 信心をさせて頂いておりますが、皆疑うという心は段々薄くなってくるんですけれども、かと言うて、本当に信じてはいない。疑うてもいないけれども、本当に信じてもいないとこう、言う程度が、まぁ多いのじゃないでしょうかね。始から、神や仏やらあるもんかと、もう始から疑ってかかっておる人も、信心のない人の中にありますけれども、信心をするからには、そのまんざら疑うてしもうてはいない。というてその確信もってとか、神様本当に信じ切っておると云う事は、それもまた少ない訳なんです。
 なぜこの、御神訓の中に、疑いを去って信心してみよ、みかげは和賀心にありっていうのがございますね、( ? )いかに、おかげを受けると云う事は、疑いを去ってと云う事が大事かと云う事が分かります。神様は信じる者を信じると言われるぐらいですから、疑うておる者の上には、働きが働きにくくあんなさる訳ですね。どんなに疑うておっても、疑いの強いものにでも、もうこの事実を目の当たりに見たり聞かされたりしたなら、疑う訳にはいかないと言う様な働きもありますけれどね。
 けど是は何時もそう云う事が頂けるとは思われない。そこで矢張り信じると云う事信じれれるというか。疑いを去って神様に向われる心を作る事が、大事だと云う事が分かります。御理解の中に色々と( ? )ってある御理解の中にも、矢張り信心しておっても、ほんとじゃろうかと思う様な事がいくらもありますね。まぁ例えて申しますとご理解85節なんかの信心頂いとってもそんな事はなかろうと思う様な事があります。
 女の身の上月役妊娠、の所の御理解。隣知らずの安産。頭痛血の道虫気なし。不浄毒立ちなし。平日の通りと。金光様の信心と言っても是だけはそんな訳にはいけん。例えば産前産後大事に特別に致しますたい。平日の通りと言う訳にはいかん。ほりゃもう子供が生まれたら例えば日の晴れるまでは、女はじっとしとかな血が乱れるとかなんとかと言った様な事を申します。けども教祖はそう言う様な事をそのもう百年も前に、
 例えばあの腹帯なんかはいらんと言うておられます。でもやっぱりそりゃ、そんな訳にはいかんと言うてもうちゃんと教えて下さっておるその事を、そのそのまま信じられないと言った様な事もありますけれど。私はなんと言うても、本気でやっぱりそれを行じきらなくてはいけないと思う。例えば腹帯をいらんと仰るから、腹帯をせずにおかげを頂いて見ようと言う様なですね。そういう私は教えに取り組ませて頂いて。
 始めて腹帯がいらんと云う事が分かり、いや腹帯はするよりも、しないほうが却っておかげ頂くんだと云う事が分かる。そりゃほかにも色々ありますよね、御教えのご理解の中にそんな訳にはいけない。隣知らずの安産のおかげを受けられない。そう言う訳にはいかん。それはやっぱし産みの苦しみというから苦しむというものは、産む苦しみと云う物は付きものだと云う事を信じておって、そういう事は無い様に思うておる。ですから、そう言う所がですね、
 いっぺんじゃいけんでも、繰り返し繰り返し、それを信じる稽古をさして頂いておる所から、隣知らずの安産のおかげ頂いてみて初めて、成程教祖の仰っている事は本当だ、というて疑いを去って、言わば他の事にも、他の御教えにも、そう言う風に取り組んで行く事が出来るんですね。神は成程声もなし、姿も見えないのですから、疑えば限りがないけれども、教えておられる事を、私は繰り返しいっぺん、二へんではいかん。
 やっぱ、繰り返し繰り返し、それを稽古して行きよる内にです、成程と合点の行く様な、信じる力というものが生まれて来る。そこから私は、疑えば限りなし、恐るべし恐るべしと、疑いというものがもう限りなく広がっていく、そこにはもうおかげの世界を、段々萎めて行く様なものですから、是は確かに恐るべし恐るべしであります。本当に矢張りあの、信じると云う事はね、有難いまた、信じられると云う事も有難い。信じ信じられる。そこで、これは人間でも同じであります様に、神様とても同じ事。
 ですから、神様を疑わんで済む為に、神様が愈々信じられる事の為に、声も形もない神様を、信じさして頂こうと言う所に、信心があるので御座いますから、一つ神様に信じられる私になる事に、先ず務めなくてはなりません。神様に信じさられる私。神様を信じる、本当に信じたいという願いを立てたらです、その神様に信じられる稽古を本気でさして頂く所から、そこんところを疑いを去りて信心して見よと、こう云う事です。
 疑いをいっぺんに去ってしまう事は出来んけれども、その前に先ず神様に信じられる私になる稽古をしてみよと、云う事になるですね、信心してみよと。そこには霊験は我が心にあり。そこには、いわゆる自分が神様に信じられる稽古をさして頂く所から、自分の心の上に、はぁ成程神様だな、神様のおかげを頂いておる印だなぁと、いう自分の心の中に神様を信じれれる力というかね、そういうものが頂けて来る様になる。
 その為には、矢張り教えて下さる事を、もうとにかく行じて見る事が先。それも一回行じて見たから、二回行じて見たから、例えば妊産婦の方に対する腹帯はいらんとこう仰いますから、腹帯を、本当にせずに、本気でまぁ信心の帯をさせて頂くという気持ちで、お縋りして行く内に、それが段々成程、腹帯はいらんもんだなぁ、成程隣知らずの安産のおかげを頂かれるもんだなぁと、是は私のとこの家内なんかがそうです。
 段々、だんだんその事を繰り返し繰り返しまぁ7人も産んでおりますから、段々おかげを頂いて、本当に成程妊娠の時に腹帯をする事よりも、しない方がおかげを受けられると言う事実。しかも段々最後の方になってくれば、くる程隣知らずの安産っていうのは、こう言う様なものであるか、と言う様なおかげを体験しております。そこでまぁお産の事だけは、家内が体験したですから、まぁその事を確信もっておる訳ですね。
 ですから結局、教えを本気で行じて見ること、御理解に腹帯をするなと仰るから、せやったらやっぱり当たり前にきつかった。やっぱり、昔から言ってある事だからした方が良かろうと言うてたんじゃ、隣知らずの安産にはとうとう、頂けんなりにしまえんならん。隣知らずの安産のおかげを頂いて始めて、教祖様が仰って居る事が、いうならば、神様の仰って居る事が嘘ではない事が分かる。そこから、信じられるおかげが受けられる。是はもう全ての上において同じ事。
 私はその事を段々確信もって、おかげ頂かなならんですよと云う事の中に、商売をする人にですね、商売のやはり忙しい月と、忙しくない月がある。それでその忙しくない、もう農繁期だから、店はもう田舎の店なんかは、暇だと決めてしまっている。農閑期でなからなきゃ、売れないごと思うとる。それを信じておる。そこで私がそれを繰り返し繰り返し読んで、そんな事はないよ、神様のお恵み神様のおかげには、何時も同じよと。先生はあげん言いなさるけれど、やっぱりコロッと農繁期は少ない。
 と言うていっぺん二へんでそれで決めてしまえば、やっぱり農繁期は暇になるのです。ですけんそこんところをですね、成程農繁期が暇かも知れませんけれども、それはまだ私の信心が足りぬからだと思わにゃいけません。農閑期は、もう忙しいんだと農繁期は忙しくないんだと、お客さんはないんだと決めておる事がおかげにならんのであるから、そういう心に決めておるそう言う様な事を、一つ皆さん疑いを去りてですね。
 そして、例えばなら、暇であってもお店はゆっくりあっても、今、お百姓さんが忙しいからお店がゆっくりあると決めずに、是はまだ私の信心が足りぬから、暇なのだとお詫びして行く所に繰り返し繰り返し、繰り返し行きよる内にです、農繁期もなからなければ、農閑期もない、成程何時も神様のお恵みっていうのは同じだと云う事がね、分かる体験が生まれて来るのです。
 それが初めの間はですね、皆が、そげん先生は言いなさるばってんが、やっぱり田舎の商売人はですね、農繁期は暇だと決めてしまっている。信心とはね、そう言う所に本気で取り組んでいく。いわゆる疑いを去りて信心して見よである。例えばなら、その印にこういう田舎の真ん中にある、その田園境界ですけれども、矢張り忙しい時もなからなければ、あの農繁期もなからなければ農閑期もない。雨の降る日もなからなければお天気の日もない、やっぱり何時も同じである。
 そしてなら少ない時にはですね、是は私は自分の修行の足りなかった事、そしてそれは詫びて参りましたが、段々おかげを頂いてですね、神様が合楽教会に下さろうとしておるおかげは、降っても照っても、農繁期でも農閑期でも同じであると、私は確信もっておりますから、矢張り意気揚々と受けております。ですからそう言うところからですね、神様は間違いがないなぁ、間違いがないなぁ、と自分の例えば、観念とかね、今まで信心のない時に信じておった事を捨てて。
 信心にならして頂いて、疑っておった事を、白紙に出来れる様な稽古もせずに、もう疑って掛ったんではね、何時までもそれだけは、おかげが狭い訳ですよ。おかげの分野ってものが狭くして行く様な物ですから、矢張り恐るべし恐るべしです。御理解をひもとかして貰ますと、沢山あります。そげな事はとてもなかろうと、聞きながら思うておる様な事が、そんな事はないというて、ならいっぺんでそれが、なるほどおっしゃる通りだと言う様に頂けるとも思われない。こちらの心がスッキリするに従ってです。
 それがだんだんおかげが受けられる様になります。いわゆる神様を信じる力がそれだけ、大きくなって参りますから神様のおかげも、おかげの分野もいわば広がって行く訳であります。神様は、その都度つどに、声もなからなければ、形もないのですけれども、言わば形もないそのものが、確信持てれるところに信心の安心というのが、ありますそこでそういう稽古を繰り返すと云う事と同時に、例えば先程も申します様に信じたいけれども信じられない、と言うところに「はんま?」するよりもですね。
 自分自身が信じられる私になるからには、本気で努める事なんです。こりゃ人間の場合でもそうですよ。家内が信じられない、主人が信じられない、どうも子供が信用されない、と例えば疑う事は、疑わねばならんと云う事は、それは嫌な事なんですけれども、それよりも一番間違いの無い事は、自分自身が信じられるお父さんになり、信じられるお母さんになる事に努めるのが一番です。
 そこから、確かに相手を信じれれる様になって参ります。神様と私共の場合でも同じ事、神様を信じたい、ならば先ず神様が言うて御座る事を、本気で行じてみて、神様に信じられる私になる稽古を擦る事です。 私があの、ここのご造営が完了してその後に、本当にあの、色々体験さして頂いた事沢山ありますけれども、例えば是を私の人間心でだったら、ここのお広前のいろんな設備なんかの事については、もっと本当にお粗末な事であっただろうと思います。
 例えばなら、ここにスチームが入る事なんかは、もう真っ向から反対した事だろうと思います。お広前は信心のいうならこういう言い訳をするんです、ここは信心の修行場、稽古場じゃから、冬に寒かったっちゃそれが修行てというて、突っ張ったに違いないですね。又ここはあの、お便所なんかの水洗になった時なんかもそうです。ここで人間心使うなら、その当時、沢山の金がかかる事だし、又その後だって。
 水洗するだけ余計お金の沢山掛る事ですから、私がそこに我情我欲出しておったらですね、もうそげな事せんでよかがの、まだ教会に、どげな大きい教会でも、水洗便所なんかどっこもなか、家だけそんな事する事いらん、と言うて反対したに違いないですね。ここの、例えばボイラー設備の時なんかでもそうです、もうそう云う事は幾らも有りましたけれども、今にして思うのにですね。
 今にして思うのに、成程神様目には見えない、形には見えないけれどもです、神様の働きそのものを、私は信じてならそうして下さい。もう私はその時、ご造営に限ってだけは、もう当時の秋永先生が委員長でしたから、もう委員長の言葉を信じました。私自身じゃ分からない事ですから。だから秋永先生がこりゃしとかないけませんよ、と言ったら、ならそうして下さい、その時はいかにも贅沢の様にあっても。
 是はなら時々、例えば電気の設備なんかでもそうです。椛目時代に、五、六千円払う電気代でも高いと思っとたのに、是だけの電気設備では大変な事である、二万も三万も払わなならんじゃろうと思ったら、そげな段じゃなか、先月なんか、十四万払ってます。けれども、思うて見るとです、本当に神様がね、こういう設備をして下さったんだから、神様がもうひとっつも無理なしに、お払いになっていると云う事ですよ。
 この事実に直面した時にですね、人間心の小さい心で疑うて掛っちゃいかんと云う事。まぁ今日の御理解から言いますとね、ですからねもう是は他にも色々あります。今度のご造営の事については。自分でばし払うごと神様が払って下さるのに、といっつも私は人にも教え、人にも説きながらです、自分が払うと思うとるから。神様のその言葉を、十分に信用しきってない、例がこの襖です。
 ここの襖だけは失敗している。金額は忘れましたけれども、片一方は例えば百万かかった、片一方は半分の値段でするっち、そりゃやもうどげん考えたっちゃ、半分の値段で行きなさい、私が頑張ったもんだから、半分の本当にしたです。だから今ここは、襖だけがおかしいでしょうが、どこの襖でも。たった僅かな事ですから、百万か二百万だったでしょうけれども。
 そん時に例えば、その神様は声もない、形もないから言うて下さらんけれども、他の人達の言葉をもって、言うて下さってるんですけれども、まぁいうなら委員長の言葉をもって言いよるけれども、それはどげん考えたっちゃ、半分の値段じゃけんと言って、それを半分の値段にしたのが失敗だった。今から考えて見ると、ほんとに馬鹿らしい話じゃったけれどもですね。
 そう言う様に私、信じとる様であっても、今言う様に自分が払うのじゃない、神様が払うて下さるんだからそんななら、出来るだけよかとの方がよか筈である。どうでしょうかね今お便所なんかでも水洗じゃない、電気なんかでもこんな至れり尽せりの電気の設備はしてない、ボイラーも入ってない、っと言ったらもう本当に、あのそりゃあ不自由な事であっただろうと思いますよ。
 ならそれを成程支払いは、とても十倍以上にも跳ね上がっています、椛目時代からいうと、電力の量だけでも。けれどもそれだけやっぱ神様が、だぁれも頼まれちゃるだぁれも言いなさらん、さぁそりゃ困ったなと言わんでよかごと、ちゃんとそれだけの事はおかげを下さっておるという事実をね、体験さして頂いて成程、疑えば限りがない事であり、又恐るべし、恐るべしと言う様な事に成って来る。是は大変なおかげの事にも、是は言わば、響いて来る訳で御座います。
 私共が、本気で神様の教えを、行じさせて貰うて、そこから神様を信じられる、それも二へん三べん、十っぺん行じたからというて、成程合点の行くおかげを受けられんにしても、それを繰り返し繰り返して行きよる家に、例えばお産の、例えば家内が一人、二人、三人、四人と体験を積んで行くに従ってです、神様信ずる力が段々強うなって来た訳です。成程腹帯をせんがええ、と云う事を信じて来る様になったに従ってです。
 もう本当に最後の一人、二人なんかは、隣知らずの安産でありました。もう最後なんかは、苦痛と云う事よりも、むしろ快感を感じ、こう感じたと言う位に。ですから、例えばなら先程申しました様に、農繁期、農閑期の問題だってそうなんです。農繁期だから商売は、どうしても、暇の月だと言う様に。決めてしまわずに、そこんところを暇な時には、私の信心が足りぬのだとしてです。お詫びして行く様な気持ちで行くと、もう私の所はおかげを頂いて、他所あたりゃ農繁期といや。
 暇だそうですいけれども、私の方だけはもう農繁期でも売上が一様に頂けますがねと、言える様なおかげが必ず頂けれるのです。それはその事だけじゃありません。もう一事が万事神様を信じる力が、そう言う所から付いて来るのです。いよいよ信ずる者を信ずるとおおせられる言わばおかげ同時に、神様を信じたいなら先ず私自身が信じられる、私になる事に焦点を置いて信心をさして貰うたら、いよいよ信じられなかった神様が、信じられるおかげを頂きよる。
 信じ信じられる仲っていうのが生まれて来て、そこから限りないおかげが頂けて来る様になるのです。信心というのは、兎に角信ずる心と書いちゃるのですから。この信ずる心に取り組んでの所謂信心が、いわゆる真心でなされなくてはなりません。段々それが神心でなされなくてはなりません。そこに、完璧な信心と云う事になると思うんですけどね。どうぞ信心とは信ずる事、信ずる稽古、為には先ず自分自身が信じられる私になる稽古を、本気にさして貰わなきゃならんと思うですね。
   どうぞ。